今なお父が生きているとしたら百六歳となる。生まれが大正だから令和時代から見れば平成、昭和のその前となんとも遠い昔の話になる。若い人の感覚では江戸時代に近いと思うことであろう。
父の誕生日は一月十日である。母が同じ一月の二日生まれてあったから一緒に祝っていたのではないかと思う。いや昔は取り立てて祝いなどやってなかったのかもしれない。まだ社会全体が貧しかった。
父は生前自分の誕生日は前年の十一月だったということをよく言っていた。わたしは昔は戸籍についていい加減だったのだろうと何も考えずに単純に思っていた。
しかしそれには秘密があったのかもしれない。
明治から大正、そして昭和の悲惨な戦争が終わるまで、日本には徴兵制度があった。二十歳になった男子はみな兵役につかなければならなかった。徴兵期間は三年間。その徴兵される時期を少しでも遅くしたいと考えた親がいる。年があらたまった一月の最初に出生届を出せば、数え年での年齢がひとつ下になる。例えば十二月一日に生まれた子は生まれると同時に一歳と数えられる。そして一月一日になるといきなり二歳になる。年齢が若くして徴兵されるのが不憫と考え、親が届け出を年が変わってからとしても不思議ではない。そんなことがあるために十一月や十二月に生まれた子供を、年が明けてからの誕生したということである。
実際のところは当時でもすでに徴兵制度は満年齢が基準になっていたが、まだまだ世間では数え歳で年齢を考えることが一般的であった。そのことを知らない人々は多かった。それゆえに誕生日を一月にずらすことも珍しくなかった。おそらく父の出生届が遅くなったのはそれが理由であろう。当時一月一日、二日生まれが多かったというお年寄りの話を聞いたことがある。生まれた子を守るための親がやったささやかな抵抗である。
あらためて徴兵制度という国家が行っていた愚かな制度のことを思う。
2025年1月1日